2階の技工室からもどってひと息ついたあと、先ほどから気になっていた疑問を先生にぶつけてみた。「ロウ義歯でピーナッツを噛み砕き、本義歯でスルメをかじることが本当にできるのか?」という疑問である。「まさか、本当にそんなことができるのか?」読者も、きっと疑問に思われただろう。「ピーナッツにしても、スルメにしても、『患者さんに食べてください』と言うと、患者さんは一様に不安そうな顔をされます。『そんなもの食べられるわけがない』と、頭から拒否される方もいます。いままでの入れ歯でピーナッツもスルメも食べられなかった人たちですから、当然の反応と言えば当然でしょう。」人工歯が排列されているとはいえ、ロウ義歯の土台の部分はロウでできている。口の中の温度で、ロウも柔らかくなっているはずだ。そんなものでピーナッツを噛み砕く。「確かに、大変なチェックです。本来なら、ロウ義歯でピーナッツのような硬いものは噛めません。きちんとロウ義歯ができていないと、本っ端微塵に砕け散ります。知り合いの歯科医から、『そんな無謀なことをよくやるな』と言われたこともあります。自信はあってもやはりハラハラドキドキの瞬間です。胃が痛くなります」たとえるなら、提出した答案用紙をその場で採点されるようなものだ。しかも、このテストには0点か100点しかない。木っ端微塵になったら0点でつくり直し、みごとにピーナッツが噛み砕けたら100点で本義歯作製に進める。ロウ義歯のピーナッツチェックで、これまでロウ義歯が砕けたことはほとんどないという。それだけ、正しい噛み合わせが実現されていることに他ならない証拠だろう。本義歯でも、完成した時点でスルメをかじる。入れ歯をはめている人にとって、スルメは苦手な食べ物の最たるものだ。「山本式総義歯咀嚼能率判定表というものがあります。これは歯科医でよく用いられる判定表ですが、スルメは最難関にランクされています。スルメも30回くらい噛んで、飲みくだせるようになります。スルメをかじった患者さんは、『先生、美味しいわ』と感激されます。何と言いますか、『よみがえるスルメの味』ですね、もう顔がほころびます」スルメ以外に、本義歯では茎ワカメや温かいお茶も出る。茎ワカメは歯ごたえを感じてもらうためで、温かいお茶は温感とお茶の味を実感してもらうためである。MTコネクターを使うと、茎ワカメの歯ごたえとお茶の温感と味がよく分かるという。MTコネクターは人工樹脂のレジンでつくられる床の部分がほとんどない。さらに、金属床は0.35ミリの薄いウィロニウムプラスの床である。この構造特性こそ、損なわれていた歯ごたえと味わいを取りもどす秘密だ。楽しそうに話す先生の顔を見ているうち、私の口の中にスルメのあの味がよみがえってきてしまった。